田村工務店は今から約90年ほど前に私の祖父が創業しました

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私が生まれてくるのと入れ違い位に亡くなったので遺影でしか顔は知りません。

祖父が使っていた昔のカンナやノミ等の道具は今でも工場に残っています。
(職人は古くなってもボロボロになっても手道具は捨てられません)
その中でも滅茶苦茶切れるカンナが一丁あってチビチビにちびたものですが、今も現役で活躍するのとっておきの一丁なのがあったりもします。

祖父は宮大工の棟梁で社寺を専門に請け負っていた大工だそうで
京都で仕事を習い、戦前は今の神戸市の住吉を拠点に仕事をしていて住吉のお寺や神社はほとんど入っていたそうです。戦後、丹波に帰ってきたそうです。
宮大工は民家をやると汚れるとか、またプライドもあったのか、普通の住宅をすることはなかったようで、またあの人に住宅を頼んでもどうせ、民家はやって貰えないと思われていたらしく、頼みに来る人もなかったそうなので、仕事が切れることも有ったと親父から聞いたことがあります。

2代目は私の親方で父の、尚徳(ヒサノリ)です

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2代目の父からは住宅も請け負っています。
祖父に習っていたので、住宅だけでなくお寺やお宮さんの仕事も数多く請け負ってきました。

昔の職人でしたから手道具を使うのが上手でした、カンナを使うのが上手かったです。
口数は少ない職人でした。
たまに親父ギャグを言うことはありました。
真面目な職人でした。
大勢の人に見送られて4年ほど前に、亡くなりました。

稼いだ分は遊びや趣味にしっかり使う人でしたからお金は全く残してはくれませんでしたが、お金で買えないものは多く遺してくれました。そのおかげでハウスメーカー全盛の厳しい今の時代も何とかやっていけているのではと感じているしだいです。感謝。

三代目の田村幹彦です

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昭和43年生まれの3人兄妹の次男坊です。
学校から帰ってきたら毎日のように暗くなるまで近所の川や池に魚釣りで、土日は少年野球と遊んでばかりのノー天気小僧でした。

「だから大工なんかになったのか」と突っ込まれそうですが

家業が大工の工務店で家の隣には作業場がありましたから親父の仕事はよく手伝わされたりしてました。

体も出来てきた高校生になってからは、休みの日や土曜の午後とか、学校から帰ってきたら半強制的に仕事の手伝いをさせられていました。帰宅部でしたしから。

高三の時、自分が少し材木の加工を手伝ったお家の棟上げにも連れていかれたことがあります。

緊張の一日でした。
せいぜい邪魔をして、うろうろしてた位の事だったと思います。

夜は施主さんのお家で棟上げの宴会です。

盛り上がってきたころに上座にいる親父が「めでた、めで~た~の・・・」と若松節を赤い顔して歌い始めるんですよ、そしたら周りの人たちも手拍子叩いて、その場の何とも言えない、雰囲気と酒に酔ってしまったのは覚えています。

この日、これまで加工してきた部材の一つ一つが組上げれていき、これから長きにわたってこの世に形として残るものとしての家が堂々と建ったわけで。
この家の場合70坪ほどあって大きかったこともあり、こんなもんを大工は腕いっぽんで造れるんだなと感心したもんです。

そんな仕事をしている親父もなかなかやるなと、大工の仕事も遣り甲斐があるもんなだと思ったわけです。それで大工を職に選んだわけです。(少し回り道もありましたが)

施主さんのお話聞いて設計・積算・施工・現場の管理と家一軒まるごと請け負えるようになった所で平成14年に代替わりして看板背負って今になります。

職人は現場が無ければ食ってもいけませんが、何より成長出来ません。とにかくより多くの経験を積むことです。
今の自分があるのはこれまで仕事をくださった現場のお施主さんのお蔭です。

これまでのお客様との出会いを自分の財産にかえて真面目にこつこつとやっております、木造大工の田村です。

ご縁があれば私に仕事を下さい。   敬具

※写真については約10年前のものです。気力、体力共に永遠の37歳でありたいとの思いで使っております。

平成28年2月